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2012.6.4
情動の変化が起こるカラクリですが、基本的に次のように説明されています。
直面している事態の変化から自動的に起こるのではなく、事態の変化と情動の変化との間には
ほとんどの場合、何らかの評価なり理解なりという認識の段階がある、ということです。
例えば、こんな話がよく例に出されます。
少々込み合っている電車の中。
あなたはドア付近に立っていました。
電車が駅に着き乗客がおり始めた時です。
前に立っていた女性に足を踏まれてしまいました。
ハイヒールの尖った踵だったのか、かなりの痛みです。
瞬間、あなたの心は驚きと怒りの情動の嵐です。
でも、次の瞬間、前の女性を含む数人の人を乱暴に掻き分けて外に出ようとしている大柄な男性を見て、
その情動は、まだ残っている痛みとは別に、急速に小さくなっていきました。
そして、改めて周囲を見回すと、自分の後ろには空間の余裕がまだまだあったことに気が付き、
今度は少し恥ずかしいような情動がこみあげてきたのです。
いかがですか?
だいたい似たような心の変化をみなさん想像できるのではないでしょうか?
では、最初の驚きと怒りは、足を踏まれたという事実から自動的に起きたのでしょうか。
踏まれた痛みが自動的に呼び起こしたのでしょうか。
その後の情動自体の変化をみると、どうもそうではないようです。
踏まれた瞬間、異常事態発生!と認識し、
同時に、踏んで痛みを与えたのはこの目の前にいる女だ。人の足を踏みつけるなんてとんでもない奴だ。
断じて許せん!となった訳です。
しかし、次の瞬間、真犯人は別にいて、前の女性も突き飛ばされた側で、
自分の足を踏んだのも、不可抗力でやってしまったもので、彼女には責任は無い。彼女は悪くはない。
と怒りは急速に収まった訳です。
さらに、踏まれたのは、もっと間隔を空けて立てたのに、
そうしなかった自分にも責任があると思うに至り、すぐ人のせいにする自分を恥じたのです。
いろいろ異論も出てくるとは思いますが、
要は、事態発生と情動発生の間に何らかの評価が行われているということが極めて大事なことなのです。
何故なら、情動の発生が自動ではなく、評価が起こすのであれば、
その評価の段階で何らかの手を打てば、情動をある程度コントロールできるということになるからです。
子供たちには、こうした例えを幾つか話し、情動に対して人間は決して無力ではないことを教えます。
その上で、具体的な対処を考えさせてゆくのです。
その一例は次回に譲ります。